時音を先に返して最後に烏森をひとまわりするとうっすらと夜が明けてきていた。もう妖の時間はおわりだ。学校の校門を出た良守の足はしらずしらずのうちに急いてゆき、家につくころには駆け足になっていた。いつもならばなんだかんだと声をかけてくる斑尾はなにも聞かずに良守のあとをついてきてくれる。今夜一晩ずっと袖にいれて暇があれば手にとっていた携帯電話にも、最初にちらりと半眼をあてただけで問いかけては来なかった。
玄関の明かりがついていて、良守はああまさかと顔色をなくした。良守が家をでるとき正守はまだねむったままだった。朝からずっと、それこそ死んだように眠っていた。兄の怪我の具合はそれほど差し迫ったものではなく、どちらかというと術を使いすぎたため、力の回復のために眠っているのだろうというのが父と祖父の見立てだった。だがそれとて素人の判断だ。良守はがらりっと勢いよく玄関のガラス戸をひき開けた。
「あ、良守、おかえり」
「父さん」
「ちょうどよかった、電話だよ」
墨村家の電話は玄関をはいった正面奥にすえつけられている。そこに父の姿を見とめた良守はデジャヴに襲われた。ついおとといの昼間にも、父はそうして電話の通話口にむかってなにか話していて、帰宅した良守に笑顔で受話器をさしだしたばかりだ。電話の相手は。
「正守からだよ。ほら、かわって」
「え、あ、うん」
父に手まねきされて良守はしぶしぶといった体で受話器をうけとった。すぐに耳に持っていくのはためらわれ、受話器を片手にお見合いをしてしまう。手に持っているだけでも聡い良守の耳は通話口からの音を拾い上げていた。電話の向こうがわはずいぶんと静かだ。通話中の筒抜けになったようなノイズだけが聞こえてくる。
「良守?」
でないの、と父が良守の顔をのぞきこんできた。良守ははっと頭を上げて、それからそうっと受話器を耳におしあてた。
『良守?』
父と同じトーンで正守が良守の名前を呼んだ。やさしく相手の心にふれる声だった。
「…」
『おつとめおつかれさま』
電話越しの正守の声は普段となにひとつかわらず、低く落ち着いたものだった。肩から力が抜けて、右手にもっていた天穴の柄が床にぶつかって音をたてた。
「良守、それ持っていくよ」
「あ…りがと…」
『あー、帰ったばっかのとこごめんな』
物音から察したのだろう、めずらしく正守がほんとうにごめんという声であやまってきた。それにも答えられずにいる良守の手から天穴をうけとると、父はぽんぽんと次男の背中をはげましてから居間へと消えた。
『ちょっと話があってさ。すぐ済むから』
「…」
『おまえが出かけてすぐくらいに目がさめてさ、ほんとはおまえの帰るのを待っていたかったんだけど、夜行のほうに直接ことの次第を説明してあげたい子がいてさぁ。待ってられればわざわざ電話なんて…良守?』
反応のない良守に聞いてる?と兄の声が問いかけてきた。
『なんか怒ってる?お兄ちゃんなんかした?』
「…」
『あれ、良守?そこにいるよね?良守。よしもり。よーしーもー』
「うっせぇよこのバカ兄貴」
『なんだ居るんじゃないの。返事してよ』
「する暇ねえじゃん」
『そうだった?』
「そうだよっ」
だってさぁという正守の声は気の抜けるほど軽く、へらへらと笑った様子までもが脳裏に浮かんだ。良守はなんだか腹がたってきた。あれほど心配した自分がアホみたいだ。
『ねえ良守、ばか兄貴ってのやめてよ』
「なんでだよ。ほんとのことだろ」
『ほんとのことだから傷つくんじゃない。昔みたいにおにいちゃんって呼んで欲しいなぁ』
「呼ぶかバカ」
腹立ちのあまりいっそ切ってしまおうと良守は受話器を耳から遠ざけた。それを察した正守があわてて取りすがる。
『わわわ、ちょ、まって良守!』
「用件を言え」
『わぁ、ドラマみたいなセリフ』
かっこいーと正守が茶化すのを耳にした良守はがちゃんと受話器を置いた。そのまま二秒ほど待ったが呼び出し音は鳴らなかった。
「…あれ?」
ぜったいリダイヤルしてくると思っていたのに、拍子抜けだった。夜…もう明け方だが、良守のなかでは眠る前は夜、起きたら朝、という区分になっている…だから気を使ったのかなと、ちょっと気がひけた頃合いみはかったように、袖の中からぴ・ぴろぴぺぽーとあかるくかるい電子音が鳴りひびいた。
「うはっ!」
良守はなれない物音にびくっとなったがすぐに音源の正体におもいあたり、気の抜けるメロディを奏でる便利なそれをひっぱりだした。ちいさな液晶には「墨村正守」とある。良守はそんなことしたおぼえはないから、これをくれた兄がわざわざ登録して寄越したのだろう。
良守のなかで、ほんとうは夜行の頭領というのは暇でしかたないのではないかという疑惑がまた黒に近くなった。
「うっせえぞバカ兄貴っ!」
良守は二つ折りのそれをぱくっとひらいて怒鳴った。
『ええ〜、良守のがうるさいよう』
「へし折るぞ」
『わ、ごめんやめて』
「…おまえ、きのうのであたまのネジ緩んじゃったんじゃねぇの」
うーんそうかなぁ大変だったもんね〜、と正守はまだ気の抜けたことを言っている。その緊迫感のなさにもういっそどうでも良くなってきて、ずっと気になっていたことをまったく気のない声にして吐き出した。
「おまえ怪我はどうなんだよ。もうなんともねーの?」
『あ、ああ、良守、あああ、あーあそれ反則』
ちいさな電話から正守のかわいいなぁという小声と含むような笑い声がもれてきて、良守は訳がわからないながらも不愉快になった。
「んだよ、ほんと頭へいきか?」
『へいきへいき、ちょう順調』
「いやおまえ絶対ネジ足りてないよ。診てもらえそのはげあたま」
『ホントに平気だってば。ちゃんと治癒してもらったからもうどっこも痛くないよ。力もたっぷり眠って回復しました』
あとハゲしゃないから、とつけ加える声は無視した。
「あそ、…ならいいや」
『あ、こら、切るなよ。いま切ろうとしたろお前』
「切るよ。もう用ないもん俺」
『お前になくっても俺にはあるの』
そういえば用件がどうのと言っていた気がする。良守はふんぞりかえって電話のむこうの兄に猶予を与えてやった。
「じゃぁさっさと言え」
『えー、なんかエラそうじゃない良守。…あ、はい、言います』
「…」
『えーとさ、いま話してるその携帯、お前にあげるから好きに使っていいよ。料金はお兄ちゃんのおサイフから出すし、お父さんにもお祖父さんにも了承済みだから』
「え」
『んで、その電話の充電器…と説明書もか。必要じゃない?』
良守は数秒のうちにぐるぐるといろいろなことを考えた。いいよ携帯なんて使わないし要らないよでも料金おまえもちなら考えてやってもいいぜいいか恩にきせるなよおまえがくれるって言うから使うんだからな。
『良守、要らない?』
「いる」
『じゃ、届けに行くから。今日の午後、目が覚めたら電話して。俺の番号ははいってるから、着信履歴でもいいし。あ、かけかたは』
「それっくらい知ってるわいっ。かけたろゴミタメに落っこちてた奴に!」
『あはは〜、その節はどうも。ほんと助かったよ良守』
じゃあね電話待ってるからとかろやかに一方的に言い捨てると、兄からの電話はぷつりと切れた。良守は言おうとした言葉をのどにひっかけたまましばらく携帯電話に相対していたが、はぁっとおおきなため息とともに切れてしまったそれをたたんだ。
「勝手に切るなよ」
自分だって勝手に切ったというのは棚に上げておく。
つやつやとした携帯電話のボディには良守の顔がうつっていた。正守ははじめから良守にこれを使わせるつもりで新品を買ってきてくれたのだろう。良守はもう一度ため息を吐いた。
自分が黙ってしまうと家はしんとしていた。祖父あたりはそろそろ起きだしてきそうな時間だが、家はまだ動き出すには早かった。
台所から遠慮がちな足音が聞こえてきて、そういえば父が起きていたのだったと思い出した。すっかり忘れていた。正守との会話は良守の意識をぜんぶさらっていくような強さがあって、良守はそれに対抗しようと電話のことだけでいっぱいいっぱいになってしまい、今が早朝であるとか大声を出さないようにだとかいう気配りはまるごと頭からぬけていた。
「ごめん父さん、俺うるさかった?」
「いいよ、正守、元気だった?」
「うん、ちょうじゅんちょうとか抜かしてた。そんで午後にまた帰ってくるって。あいつ暇なのかなぁ」
良守はいやそうにそう言った。だが父にはお見通しらしく、よかったね良守とやさしく微笑まれてしまった。
「ごはんすぐ食べられるようになってるから、台所でいいかな」
「あ、うん、ありがとう」
着替えたらおいでと言うと、父はまた台所にもどっていった。
頭のタガは若干緩んでしまったようだが、とにかく正守はすっかり元気になっていた。これから寝て起きて電話をすれば良守のところに来るという。
早く顔だせバカ兄貴。
かくんとひざがぬけた。
まぶたがとけた飴みたいに重たくて目が開けていられなくなった。昨日からの疲れが一気にきたのだろう、良守は廊下のまんなかにばたりと倒れこむとそれきり動けなくなってしまった。
寝て起きたら正守。
念仏のようにそう唱えながら良守は気絶に限りなく近い眠りについた。物音から事態に気づいた父がなにか言っているようだが、良守の脳みそにはとどかなかった。
寝て起きたら、正守がくる。
2007/05/11
165話その後をさらに捏造。 とにかくつぎの三出ーが発売される前に書いてしまわなければと、当方比で五割増しくらいの勢いでかつかつとパソコンにむかっていました。